岡田有希子誕生物語

少しずつですがお話しや画像も追加していきたいと思います。

S42.8.22

(1967年)昭和42年8月22日火曜日、愛知県一宮市桜助産院で正午頃、佐藤家の次女として、難産の末に生まれる。
体重2700g 身長47cm。

「この日が何の日かわかりますか? そうです。私がこの世に生を受けた記念すべき日なのです。」


(1歳頃)


ユッコが2歳の時に一宮市から名古屋市熱田区に引越し。

難産の末に生まれたため、ちゃんと育つかどうかという周囲の心配をよそに、ユッコはスクスクと成長。
心配ごとといえば、「サ行」がなかなか言えなくて、゛サンリンシャ゛を、゛タンリンチャ゛
゛ささのは さらさら゛という歌を、゛タタノハ タラタラ゛と大きな声で歌っていた。

S47.4月

名古屋市立旗屋幼稚園 入園


(4歳8ヶ月)

YMCAの体育教室(マット運動やとび箱など、体を強くするための教室)にせがんで入れてもらう。
「3年後には体操教室へ移って、平均台とかやってました。」
「体はとっても柔らかいんですよ。でも、運動神経がないんです。」

S49.4月

名古屋市立高蔵小学校 入学


(海へ遊びに行った時)

二年生で合唱部に入る、四年生からは絵もはじめる。


(六年生の合唱コンクールでラジオ出演)

ユッコは絵を描くことに関しても、ずば抜けた才能があった。
「小三の時の(私が大きくなったら)という題の作文では、(画家かマンガ家か小説家になりたい)
って書いたの。中でも本気で考えたのは、画家なんです。」

また、本を読むのが大好きな文学少女でもあった。
「どうして人間は寝ないといけないんだろう。 こんなにたくさんの本があるのに
寝るのが、もったいない !」


(体操教室へ通った小三の頃)

五年生の時に、朝日新聞社の写生会で入選 !
六年生の時には、宮司賞という一番良い賞を獲得 !

その後、「真剣に絵の勉強がしたい !」と言いだし、六年からは、日本画や油絵を教えている
偉い先生のところで週一回、本格的にデッサンから勉強をはじめる。

また、ユッコの耳が大きかったので、友達からは「ダンボ耳 (ディズニーの空飛ぶ象)」といわれていた。
「もし私に赤ちゃんが出来たら、ちゃんと耳をふせてピョーンと立たないように上手に寝かせるつもり !」

「六年生になって百人一首をよくやるようになり、中でも一番好きだったのが
゛あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり゛という和歌です。」


(小六の修学旅行で、友達とお弁当を広げて)

六年生の学芸会で「浦島太郎」の乙姫様役を熱演。この頃からタレントの素質があったようだ。
「乙姫様役がなかなかの評判で、実は佳代、ちょっぴり自信をつけたんです。自分でいうのも
何だけど、校長先生が走って見に来たほどなんだって。ウフフ」


(学芸会で乙姫様役を演じる佳代ちゃん。矢印)


佳代ちゃんがどこにいるかわかるかな〜?

(学芸会「浦島太郎」での佳代ちゃんの貴重な歌声です)

 

S55.4月

名古屋市立沢上中学校 入学

一年生の秋にユッコは生まれてはじめてラブレターをもらう。
「直接手渡されたんです。後から"NO"の返事をしました。」
その後も机の中にラブレターが3回ぐらい入っていたが、すべてユッコの方から断った。
「男の子とマジに付き合うのがコワかったんです。女の子と遊んでいた方が気が楽だったし・・・」

 

この頃からユッコは男子生徒から憧れの的となる。
二年生の時に一度だけデートを体験する。東山動物園に行きほとんどしゃべらずに終わる。

歌手になりたいと思う気持ちがだんだん強くなり、この頃からありとあらゆるオーディションに応募する。

「大きな有名なものから、ちょっとしたタレント募集のオーディションまで、少しでもタレントになる
チャンスがあると思えるものは、何でも挑戦したんです。そして、応募しては落選、
また応募しては落選・・・。悲惨でしたねー。」

 

Nikonの「フレッシュギャル・コンテスト」で準グランプリ


(初めて雑誌に写真が載る)

 

「その中でやっと(ニコン、フレッシュギャル・コンテスト)に入賞して、ごほうびにグアム旅行に
行けた事ぐらい・・・。でもこれは、タレントになるキッカケまでは与えてくれなかったんです。」

NHK名古屋制作「中学生日記」にエキストラとして出演もしたことがある。
「中学生日記に出演しながら二年の冬、スター誕生のオーディションに応募したのが
きっかけで今の私があるのですが・・・」

年生の10月に名古屋での「スター誕生」テレビ予選に合格する。
「私は誰にもいわず、一人で予選にのぞみました。三年生の10月といえば高校受験を控えた
大事な時期です。でも、私にとってこの予選が運命の分かれ道だったんです。」


(名古屋のテレビ予選で歌うユッコ)


(合格した瞬間の超貴重な映像です。涙、涙・・)

佳代ちゃん、合格おめでとーっ!(^-^)/

 

あとは決戦大会に出るだけ、と思っていたところに両親が大反対 !!
ユッコは自分の部屋にこもり、三日間一切食事は取らず、両親ともまったく口をきかず抵抗した。


(決戦大会出場を反対されて部屋に閉じこもっていたとき、必死の思いを込めて母に出した手紙)

四日目に母が折れ、次に挙げる三つの条件をクリアすれば、決戦大会に出てもいいと言った。

・学校のテストで学年で1番になること。
・中部統一模擬試験で、学内5番以内をとること。
・第一志望校の向陽高校に合格すること。

「そんなの出来るわけない ! って思っちゃった。でも次の瞬間には、私もう決心してたの。
やってみよう !! ってね。」

事実、この条件が出される前でもユッコは小学校、中学校と成績は常にトップクラスである。
もともと、ユッコは頭がいいのである。
「得意っていうか、好きなのは国語とか英語など、文系ですね。理科はきらいです、
数学もあんまり好きじゃない !」

 


(中二の時の通知票。 ほとんどオール5だったのがわかる。 賢すぎる !)

向陽高校に合格することが条件にあったため、とりあえず12月の決戦大会はあきらめ
次の決戦大会に賭けた。
その日からユッコの猛勉強が始まる。朝、昼、晩、深夜の2時3時まで机に向かう日が続く。

「でも不思議なものですね。一生懸命勉強すると、クラスで5番くらいの成績だったんだけど、
テストのあるたび、ちょっとずつ席次があがっていくんですよ。5番が4番に、4番が3番に。
これはもしかすると・・・・なんて考えてネ !」

そして、第一条件、第二条件とクリアしていくのである。後は高校に合格するだけ。
この頃になると、母も夜食を作って応援してくれるようになる。というのも夜食をたくさん食べて
ブタのように太れば決戦大会に出ても間違いなく落選するという、母なりの作戦があったのである。

昭和58年3月19日 向陽高校の合格発表の日

「あった ! 65番、私の番号があった !」

ユッコは条件をすべてクリアしたのである。
「取材でこの話が出るたび、みんながよくがんばったね、ってほめてくれる。私も半分くらい(?)は
自分でもエラかった(!?)なんて思ってるけどネ」

名古屋は、学校群制度である。 複数の学校を組み合わせたいくつかの゛群゛を作り、生徒に
選ばせる受験制度。 どこか一つを志望するわけにはいかない。ユッコの場合゛菊里=向陽゛という
群を受験し合格した上で、抽選により゛向陽゛に振り分けられたのである。

もっと詳しく言うと、ユッコ受験当時の学校群は上位から
2群(あさひがおか高校・ちぐさ高校)
1群(ちぐさ高校・きくざと高校)
6群(めいわ高校・なかむら高校)
15群(こうよう高校・きくざと高校)となっていました。

ちなみに、当時のエリート進学校は、上から旭丘、明和、千種、菊里、向陽…でした。

向陽は5番目なのです。ユッコの実家からの通学を考えると、
これらの中では一番向陽に通いやすかったのだと思います。

群に合格した後は、成績順に、
1番はA高校、2番はB高校、3番はA高校…というふうに
振り分けられます。それで、ユッコは向陽に行けたのですから、
とてもラッキーだったわけですよね。

 

昭和58年3月30日東京後楽園ホールでの決戦大会

「本番近くになると、胸が異常にドキドキしてきました。もし落ちたら、歌手になれない・・・・・、
ああこのまま帰ってしまいたい。お母さんが待っている名古屋の家へとんでかえりたい。
泣きたい気分でいたのですが・・・・・。」
ずっと歌手に憧れ「スター誕生」の通知を1年半も待って、今、この決戦大会のステージに立っている・・

 

そして、見事 グランプリ !!


(勝ち残った瞬間、大粒の涙がポロポロ ! 司会、西川きよし)

長い長い道のりをへて、ユッコは歌手への第一歩を歩きはじめることになる。

 

S58.4月

名古屋市立向陽高校 入学 (当時、県下でも5本の指に入る進学校 !!)


(デビューが決まって、学校でも注目されていた)

所属事務所はサンミュージック、レコード会社はキャニオンレコードに決まる。
二学期から上京することとなる。

上京までの数ヶ月間は、ユッコの18年間の人生において最もハッピーで、
充実した時期だったかも知れない。

「クラブは入らず、サッカー部のマネージャーをやらせてもらいました。マネージャーなら、
途中でやめても他の人に迷惑をかけなくてすむと思って・・・」

7月17日芸名が決まる。 オ・カ・ダ・ハ・ル・コ のちにオ・カ・ダ・ユ・キ・コ に変わるのだが・・・
「初めて゛岡田有希子゛という名を聞かされたときの感動は、今でも忘れられません。」

7月20日終業式の日に、クラスの友達が、ユッコのために送別会を開いてくれた。
タイトルは「佳代ちゃん がんば !」 寄せ書きを回し、男子生徒は一人ずつユッコといっしょに
写真を撮り、そのあと近くのデニーズへ行っていつまでもいつまでも、別れを惜しんだ。


(送別会のあとみんなと行ったデニーズ)

「あの時は、みんなが (送る言葉) を合唱してくれたんです。ホント、感激して泣いちゃいました。
せっかくみんなと仲良しになれたのに別れるのはつらかったです。こんなにつらいなら
歌手になるのをやめちゃおーか、と思ったくらい・・・」


(上京3日前 自宅の門の前で。 16歳の誕生日でもある)

昭和58年8月25日新たな思いを胸に東京に行く日がやってきた。

ユッコは母や、姉、友達に見送られて新幹線に乗り込んだのである。
「感動的な別れをするはずだったけど、荷物を運んでくれたお姉ちゃんが下りる前に新幹線が
出発しちゃったの ! おかげでドジな初日になってしまいました。」

「フェーもうメチャンコ感激 !! 初めて「ふぁんれたあ」というのをもらった ! うれしいナ
すごい感動 !! キャいーン」

上京したユッコはサンミュージックの社長さんの家に下宿し、7ヶ月間に及ぶ発声や踊りの
レッスンを積んだ。2、3ヶ月毎日同じステップを踏まされたこともある。
「朝は6時におきて、社長さんと近くのお稲荷さんや不動尊まで毎朝ジョギングするんです。
毎月、1日と15日にはおさい銭を持っていって、たくさんのことお祈りしたっけ・・・」


(レッスンに励むユッコ)


(相澤社長と早朝マラソンをするユッコ)

高一の二学期に堀越に転校する。人見知りする性格のため、クラスに溶け込むのに時間がかかる。
名古屋弁を笑われるのでは? と気にかけ、共通語を話せるまでは無口だったという。


(堀越に転校した当時)

 

 

そして、デビューする日が刻々と迫っていた。
デビュー曲は竹内まりや作詞作曲「ファースト・デイト」に決まる。

 

♪まるで夢見たいよ 何もかもがバラ色に見えるわ〜♪の心境です・・。

 
(デビュー直前、平河天神でヒット祈願するユッコ !)

 

 

 昭和59年4月21日 岡田有希子「ファースト・デイト」で念願のレコードデビュー!

スーパースターをめざし、ついに有希子はスタートをきる。







 

 

 

お母さん・・・

この道は、自分で選んだ道です。

佳代は・・・ いえ、岡田有希子は

だれからも愛される歌手に

なるようにがんばります!

実録マンガ「岡田有希子」より

 

 

私、今歌手になれて本当によかった

今まで、とってもラッキーだったナと思うんです。

だから、今のこの幸せな気持ちを持ちつづけるためにも、

つらいことがあっても、元気に

精一杯がんばって歌い続けたいと思います。

みなさん ! 応援して下さいNe !!

 

有希子・・・

BOMB ! 1984/6月号より

 

 

夢にまでみた、歌手になることが、

やっとやっと実現しました。

いままでは、人の歌を歌うだけだったのに、

いまは私のために作られた歌を、

私が歌える・・・まだ信じられない気持ちでいっぱいです。

4月21日。デビューの夜はどれだけの人が私の曲を

聞いてくれるのだろう・・・と心配で心配で眠れませんでした。

でも、そんな不安を、吹き飛ばしてくれる、

ファンの人達の暖かい声援をはげみに、

しっかりと自分を見つめて

ガンバってゆきたいと思います。

IDOL Touch 1984/7月号より

 

 

岡田有希子誕生物語 ( 完 )

 

 

編集後記

『ユッコを知らなかった方も、大まかですがデビューまでの生い立ちを、ある程度分かって
いただけたかと思います。僕が、この誕生物語を作ろうと思って所有する全てのユッコの
記事を、一から改めて読み返しました。いろいろ気づいたんですが、雑誌によって書かれ
ている内容が微妙に違っていたりするんですよね。また、僕自身知らなかったこともいくつ
かありました。インターネットを始めて、ホームページを作りだして、ユッコが亡くなった日以
来、急にユッコと接する機会が増えました。本当にうれしいです。この記事を作っていた時
も、雑誌に載っているユッコのさまざまなカットを眺めつつ、当時のことを思い出し涙が溢
れました・・。ユッコは本当に素晴らしい子です。とても純な子です。僕はずっとユッコファン
であり続ける事でしょう。ユッコと同じ時代に生きる事が出来て良かったです。』by さぶやん

 

最後に、この岡田有希子誕生物語を制作するにあたり、
資料などのご協力をいただきました関係各社様に心より感謝申し上げます。

 


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