岡田有希子誕生物語
少しずつですがお話しや画像も追加していきたいと思います。
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S42.8.22 |
(1967年)昭和42年8月22日火曜日、愛知県一宮市桜助産院で正午頃、佐藤家の次女として、難産の末に生まれる。
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ユッコが2歳の時に一宮市から名古屋市熱田区に引越し。 |
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S47.4月 |
名古屋市立旗屋幼稚園 入園
YMCAの体育教室(マット運動やとび箱など、体を強くするための教室)にせがんで入れてもらう。 |
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S49.4月 |
名古屋市立高蔵小学校 入学
二年生で合唱部に入る、四年生からは絵もはじめる。
ユッコは絵を描くことに関しても、ずば抜けた才能があった。 また、本を読むのが大好きな文学少女でもあった。
五年生の時に、朝日新聞社の写生会で入選 ! その後、「真剣に絵の勉強がしたい !」と言いだし、六年からは、日本画や油絵を教えている また、ユッコの耳が大きかったので、友達からは「ダンボ耳
(ディズニーの空飛ぶ象)」といわれていた。
「六年生になって百人一首をよくやるようになり、中でも一番好きだったのが
六年生の学芸会で「浦島太郎」の乙姫様役を熱演。この頃からタレントの素質があったようだ。
(学芸会「浦島太郎」での佳代ちゃんの貴重な歌声です)
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S55.4月 |
名古屋市立沢上中学校 入学
一年生の秋にユッコは生まれてはじめてラブレターをもらう。
この頃からユッコは男子生徒から憧れの的となる。 歌手になりたいと思う気持ちがだんだん強くなり、この頃からありとあらゆるオーディションに応募する。 「大きな有名なものから、ちょっとしたタレント募集のオーディションまで、少しでもタレントになる
Nikonの「フレッシュギャル・コンテスト」で準グランプリ
「その中でやっと(ニコン、フレッシュギャル・コンテスト)に入賞して、ごほうびにグアム旅行に
NHK名古屋制作「中学生日記」にエキストラとして出演もしたことがある。 三年生の10月に名古屋での「スター誕生」テレビ予選に合格する。
佳代ちゃん、合格おめでとーっ!(^-^)/
あとは決戦大会に出るだけ、と思っていたところに両親が大反対
!!
四日目に母が折れ、次に挙げる三つの条件をクリアすれば、決戦大会に出てもいいと言った。 ・学校のテストで学年で1番になること。 「そんなの出来るわけない !
って思っちゃった。でも次の瞬間には、私もう決心してたの。 事実、この条件が出される前でもユッコは小学校、中学校と成績は常にトップクラスである。
向陽高校に合格することが条件にあったため、とりあえず12月の決戦大会はあきらめ 「でも不思議なものですね。一生懸命勉強すると、クラスで5番くらいの成績だったんだけど、 そして、第一条件、第二条件とクリアしていくのである。後は高校に合格するだけ。 昭和58年3月19日 向陽高校の合格発表の日 「あった ! 65番、私の番号があった !」 ユッコは条件をすべてクリアしたのである。 名古屋は、学校群制度である。
複数の学校を組み合わせたいくつかの゛群゛を作り、生徒に もっと詳しく言うと、ユッコ受験当時の学校群は上位から ちなみに、当時のエリート進学校は、上から旭丘、明和、千種、菊里、向陽…でした。 向陽は5番目なのです。ユッコの実家からの通学を考えると、 群に合格した後は、成績順に、
昭和58年3月30日東京後楽園ホールでの決戦大会 「本番近くになると、胸が異常にドキドキしてきました。もし落ちたら、歌手になれない・・・・・、
そして、見事 グランプリ !!
長い長い道のりをへて、ユッコは歌手への第一歩を歩きはじめることになる。
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S58.4月 |
名古屋市立向陽高校 入学 (当時、県下でも5本の指に入る進学校 !!)
所属事務所はサンミュージック、レコード会社はキャニオンレコードに決まる。 上京までの数ヶ月間は、ユッコの18年間の人生において最もハッピーで、 「クラブは入らず、サッカー部のマネージャーをやらせてもらいました。マネージャーなら、 7月17日芸名が決まる。
オ・カ・ダ・ハ・ル・コ のちにオ・カ・ダ・ユ・キ・コ
に変わるのだが・・・ 7月20日終業式の日に、クラスの友達が、ユッコのために送別会を開いてくれた。
「あの時は、みんなが (送る言葉)
を合唱してくれたんです。ホント、感激して泣いちゃいました。
昭和58年8月25日新たな思いを胸に東京に行く日がやってきた。 ユッコは母や、姉、友達に見送られて新幹線に乗り込んだのである。 「フェーもうメチャンコ感激 !!
初めて「ふぁんれたあ」というのをもらった ! うれしいナ 上京したユッコはサンミュージックの社長さんの家に下宿し、7ヶ月間に及ぶ発声や踊りの
高一の二学期に堀越に転校する。人見知りする性格のため、クラスに溶け込むのに時間がかかる。
そして、デビューする日が刻々と迫っていた。
♪まるで夢見たいよ 何もかもがバラ色に見えるわ〜♪の心境です・・。
昭和59年4月21日 岡田有希子「ファースト・デイト」で念願のレコードデビュー!
スーパースターをめざし、ついに有希子はスタートをきる。 ・
お母さん・・・ この道は、自分で選んだ道です。 佳代は・・・ いえ、岡田有希子は だれからも愛される歌手に なるようにがんばります! 実録マンガ「岡田有希子」より
私、今歌手になれて本当によかった 今まで、とってもラッキーだったナと思うんです。 だから、今のこの幸せな気持ちを持ちつづけるためにも、 つらいことがあっても、元気に 精一杯がんばって歌い続けたいと思います。 みなさん ! 応援して下さいNe !!
有希子・・・ BOMB ! 1984/6月号より
夢にまでみた、歌手になることが、 やっとやっと実現しました。 いままでは、人の歌を歌うだけだったのに、 いまは私のために作られた歌を、 私が歌える・・・まだ信じられない気持ちでいっぱいです。 4月21日。デビューの夜はどれだけの人が私の曲を 聞いてくれるのだろう・・・と心配で心配で眠れませんでした。 でも、そんな不安を、吹き飛ばしてくれる、 ファンの人達の暖かい声援をはげみに、 しっかりと自分を見つめて ガンバってゆきたいと思います。 IDOL Touch 1984/7月号より
岡田有希子誕生物語 ( 完 )
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編集後記
『ユッコを知らなかった方も、大まかですがデビューまでの生い立ちを、ある程度分かって
いただけたかと思います。僕が、この誕生物語を作ろうと思って所有する全てのユッコの
記事を、一から改めて読み返しました。いろいろ気づいたんですが、雑誌によって書かれ
ている内容が微妙に違っていたりするんですよね。また、僕自身知らなかったこともいくつ
かありました。インターネットを始めて、ホームページを作りだして、ユッコが亡くなった日以
来、急にユッコと接する機会が増えました。本当にうれしいです。この記事を作っていた時
も、雑誌に載っているユッコのさまざまなカットを眺めつつ、当時のことを思い出し涙が溢
れました・・。ユッコは本当に素晴らしい子です。とても純な子です。僕はずっとユッコファン
であり続ける事でしょう。ユッコと同じ時代に生きる事が出来て良かったです。』by
さぶやん
最後に、この岡田有希子誕生物語を制作するにあたり、
資料などのご協力をいただきました関係各社様に心より感謝申し上げます。